2016年5月6日金曜日

【新刊『スピラレ vol.05』】書店&通信販売情報

新刊『スピラレ vol.05』を5/1文フリ東京で入手し損ねたお客様ならびに、
全国の読者の皆様、お待たせいたしました・・・
書店&通信販売情報です!

取り扱い:模索舎

こちら、新宿(三丁目)にある書店さんです。
通信販売も行っていますので、
以下のリンクからお買い求め下さい。

【模索舎store】●スピラレ vol.5

定価500円です。

お手に取ってご覧ください~。

2016年4月16日土曜日

【近刊『スピラレ vol.05』】特集に先立って

「障害」と「芸術」の臨界点


 「障害」という言葉は、あなたの日常の中でいつ、どのような形で立ち現われては消えていくだろうか。 
運動会やバラエティ番組の企画にあるような、「障害物競走」における「障害」という言葉の意味を考えるにそれは、「乗り越えられなければならないもの」を示す。
例えば、国民的ポップバンドのMr.Childrenには、「終わりなき旅」という楽曲があり、多くのファンが好む、「高ければ高い壁の方が、上った時気持ちいいもんな」という歌詞がある。
確かに、壁=障害は、それを「乗り越え」るのが困難であればあるほどに、「乗り越え」た時の達成感が得られるように思われる。
それでは、壁を前にした時に我々は、それを「上る」ことでしか、「乗り越えられ」ないのだろうか。
もしかしたら、抜け穴を見つけるとか、誰かにその壁を壊してもらうこともあり得るだろう。
いや、そもそもその壁はそのままに、別の方向へ進んでいくこともできる。
それも全て、壁を「乗り越え」た経験として誇ることは、一体何故できないというのだろうか。

 ところで、「障害者」にとっての「障害」は、今や当事者だけの力で「乗り越えられなければならないもの」ではない、という見解が広まりつつある。
それは、「障害」を「障害者」個人の問題に収斂することなく、「障害者」を取り巻く環境の問題へと拓いていく。
例えば、「目の見えない人」が本を読む場合には、点字本を読むか読み上げてもらって音声として言葉を知覚するが、その場合に点字本があったり読み上げてくれる人がいる環境ならば、「目の見えない」という「障害」は一先ず問題ではなくなる。
学術的な言葉を用いれば、個人の問題とする「障害」は「インペアメント」、環境と個人の問題とする「障害」は「ディスアビリティ」と区別される。
このような観点は、障害の「社会モデル(視点)」、「文化モデル」と言われている。(以前の障害観は「医学モデル」という。)
そして、こうした学問・知の運動=「障害学」が台頭してきた時期は、『障害学への招待』が刊行された一九九九年頃に見出すことができるだろう。
そう考えると、既に十五年以上の月日が流れていることになる。
だが、私たちの感覚では、この「障害学」の考え方が一般に広まっているようには感じられない。
そのことが、「福祉」という世界が、如何に閉鎖的なものであるかを物語っているように思われる。
だいたい、「障害学」の知は、「障害者」とその関係者のみのためにあるものでは決してない。
先ほど、「目の見えない人」の例を出したが、よく考えてみれば、眼鏡かコンタクトをしたこの国の現代人の大半は、多少目が悪くても眼鏡やコンタクトが安価に手に入る環境を生きているおかげで、「障害」を感じないだけだと言える。
つまり、「障害」の程度にはグラデーションがあり、それは個人と環境の間で揺れ動く。
視力が悪くないという人だって、その人とその人が生きる世界において、何かしら「障害」があるはずだ。
極端なことを言えば、グローバル資本主義社会において、お金の問題という「障害」を抱えていない人がいないとは想像しがたい。
その点において、いわゆる「健常者」だって、「障害」を持っているのが現代と言っても過言ではない。


 前置きが長くなってしまったが、ここからは、本誌で新たに目指す地平について説明しよう。
それはまず、「福祉」の側に立って言えば、「障害の芸術モデル」を提示することである。
「障害」を個人の問題から環境の問題へと拓いていく上で、「社会」でもなく、「文化」でもない、「芸術」の観点から「障害」を捉えていくことになるだろう。
何故ならば、「社会モデル」と「文化モデル」だけでは、前述したように「障害学」の知見が「福祉」の枠を超えていくことに限界が感じられるからだ。
そこで、私たちは専売特許である「批評」を擁して、芸術作品を「障害」という観点から分析・敷衍し、論を止揚していくことにする。対象とする作品に、「障害者」が関係していても、していなくても全く問題ない。
観点としての「障害」である。

 そしてもう一つ、「芸術」の側に立って言えば、「障害」という観点が現代において欠かせない命題であることを立証する。
その理由は、「美術」の分野を介すると分かり易い。
「正規の教育を受けていない作家」による作品を示す、英語の「アウトサイダー・アート」の語源となった、「アール・ブリュット」というフランス語がある。
「アール・ブリュット」というと、「障害者の美術」を名指していると思われる向きもあるだろう。
しかし、この言葉を提唱したジャン・デビュッフェによれば、「アール・ブリュット」とは「生(き)の芸術」という意味である。
換言すれば、「加工されていない芸術」だ。
つまり、「障害者」の「美術」作品に限らず、「正規の教育を受けていない作家」による「芸術」作品はすべて、「生(せい)」を剥き出しにした「芸術」作品なのだ。

 さて、現在の芸術界を俯瞰してみると、専門的な知は鳴りを潜め、様々なジャンルのコラボや、新たな分野からの参入が目立つ。
その意味で、現代の芸術作品は「正規の教育を受けていない」「アール・ブリュット」であると換言できる。
であるならば、その「生(き)の芸術」には、「正規の教育を受けていない」という「障害(ディスアビリティ)」がある。
今や、あらゆる芸術作品も「障害」を抱え、「生」を剥き出しにして佇んでいるのだ。
そこへ、批評家を名乗る私たちが、「言葉」という名の手を差し伸べなくてどうしよう。
アマチュアリズムを孕む私たちスピラレ同人もまた、批評に関する「正規の教育を受けていない」。
いわば、本誌で目指す「批評」は、「生(き)の批評」なのかもしれない。
いずれにせよ、私たちの筆が辿っていく道は「障害」と「芸術」の漸近線である。
その先にある、「障害」と「芸術」の臨界点へ向かって、『スピラレ』は半年の停止期間を経て再稼働する。